途上にて

過去と未来の交差点

この人生で

僕には子どもが二人いる。4歳の男の子と、1歳の女の子だ。彼らの前途は無限に広がっている。僕の頭を遠く超えて、僕の知らない、向こう側の世界で活躍して欲しいと思っている。

 

 

僕はまだ生きるつもりだ。死ぬ予定はない。しかし、人間は時々、本人も予想だにしない死をとげるものだ。だから、僕は自分の携帯の中に、もしものことがあったら、彼らに言いたいことをメモしている。

 

 

これは長男が生まれてから、日々思いついたことの中で、記憶にとどめておきたいものをメモしてきているので、ずいぶんな量になった。その中の一つで、僕が特に子どもたちに言っておきたいことがある。

 

 

キミはこの人生で何をするか。

 

 

人間も生き物には変わりないが、動物と違う点は、人生に意味を求めるということだ。自分が意味付けしたものが、自分の人生そのものである。人の人生とは、自分が自分の人生につける意味そのものなのである。

 

 

僕はこの人生を何に捧げるのか。

 

 

そして、その問いはそっくりそのまま僕に跳ね返る。悩みや不安、憂鬱に苛まれ、人生を浪費し続けていいのか。好きでもないことを嫌々しながら、後戻り出来ない貴重な時間をやり過ごしていいのだろうか。

 

 

人が恐れてるのはほとんどの場合、他人の目である。

 

 

なぜ、他人の目を恐れるのか。それはこの世にはある程度の数の、他人が不幸であってほしい人間が存在するからだ。誰かの失敗や、誰かの不幸にたかるハイエナのような人間がどうしても存在するからだ。そして、それを遠巻きに眺めてホッとする人間もいるからだ。

 

 

人は幸せにならなければいけない。

 

 

幸せとはなにか。自分が満足できる人生を送ることだ。幸せかどうかは自分でしかわからないのだ。結局、人は自分が幸せでないと、誰かの幸せを願うことはできないのだ。

 

 

誰かの犠牲になってはいけない。自分を奴隷におとしめてはいけない。誰かに認めてもらうために、人生を他人に捧げてはいけない。

 

 

しかしこれはなにも一人で生きるということではない。もっと正確に言うならば、「誰にでも」好かれようとしてはいけない。「誰にでも」認められたがってはいけない。誰を相手として生きるかは、自分が選ぶのだ。

 

 

人生は自分の選択の集大成なのだ。

 

 

人は無数の選択をする。生まれてから死ぬまで、些細なことから、人生の分かれ道になるような決断まで。大切なのは自分で決めることだ。自分で決めているようで、誰かの価値観に基づいて決めることは思いのほか多いものだ。本当に自分で決めてきたならば、今日のわたしが憂鬱なはずはない。

 

 

この人生でなにをするか。

 

 

そのために人生の選択権を自分の手に取り戻すのだ。