途上にて

過去と未来の交差点

不幸

不幸を受け入れよ。

 

幸せになりたいなら、その同程度の不幸を受け入れる覚悟を持つべきだ。例えば、本当に二度とないような掛け替えのない熱烈な恋に憧れるなら、それを失った時はその反動で同程度の不幸に苛まれるだろう。10の幸せがあるとしたら、10の不幸があるだろうが、100の幸せがあるとしたら、僕らは100の不幸の陰に怯えることになるだろう。

 

無論、不幸はただの幸せに対する言葉だ。それが不幸であるはずはない。ここでいう不幸は、「幸せの影」と言ってもいいかもしれない。僕が太陽に当たれば、からなず影ができるように、幸せもいつも幸せの影をともなう。僕らはその幸せの影を、不幸と思ってしまうのだ。僕の影が、僕自身に起因するように、幸せの影は幸せに起因している。それを不幸と思うのは単なる勘違いだ。

 

幸せをおそれるな。

 

幸せになるのが怖い人は少なからずいる。それは不幸な人に囲まれて育った人だ。人は幸せになるべきなのだ。いや、人は幸せに生きる義務がある。

 

なぜなら、不幸な人は他人が不幸でいてほしいからだ。

 

私の不幸は誰かを不幸にするのだ。それが自覚的でれ、無自覚的であれ。

 

僕らがどれだけ不幸に怯えようと、僕らは不幸から逃れれはしない。それは、お化けから逃げたいというのと同じで、僕らはお化けから逃げうることはない。なぜなら、僕らはお化けというものの実態をつかめないからだ。僕らは不幸というものを実は知らない。不幸というものを理解できているものがいるとしたら、それは幸せを知っているものだ。幸せなものだけが、不幸を理解しうるのだ。僕らは、知らないものを想像で知っていると思いたがる生き物だ。

 

人間が生きている以上、傷つくことからは避けられはしない。勇敢に前に進んで傷つくこともあるだろうが、臆病に縮こまって逃避した傷も僕らの無意識は知っている。どちらにせよ、人生は無傷ではいられないのだ。

 

不幸をおそれるあまり、不幸になるというパラドックスに陥ることはあまりにも多い。幸せに向かうことを恐れて、一度きりの人生を棒に振ることも思いの外多い。僕らの理性は万能どころか、あまりにも頼りないものなのだ。

 

僕らが頼りにするべきは感情なのだ。感情こそ、僕らの個性そのものだ。私の感情こそが私のものなのだ。

 

不幸をおそれるな。そして、勇敢に進め。