途上にて

過去と未来の交差点

差別

人間には差別意識がある。

 

 

本人が自覚してようと、自覚してなかろうと、人間は差別意識がある。こんな生活は嫌だとか、こんな仕事はしたくないとか、こんなになったら嫌だとか。でも、「こんな」人生を送っている人はいるのである。差別意識が強ければ強いほど、人生は困難になる。

 

 

好きで語れ。

 

 

人間は、自分の望みを叶えればいいのだと思う。こうしたいで生きるだけでいい。あらゆるこうありたくないを避けるとき、すでに人生は誰かに乗っ取られている。子どもを見ればよくわかる。自分の欲しいものは一瞬で決まる。それがなんであろうと、いくらであろうと、どういう評価を受けようと。3歳児は一瞬で自分の欲しいものが決められる。

 

 

普遍的に価値のあるものはない。

 

 

就職だろうと、結婚だろうと、こういうものが価値がある、と考えさせられるものが、世の中に溢れかえっている。誰かに認めてもらえるものを、人々は狂った動物のように探し求めている。ある一つの価値のベクトルがあって、その数値の大きいものを必死になって探している。それはすでに、その人が欲しいものではない。

 

 

人の評価が死ぬほど欲しい。

 

 

つまりは、それほど人の評価が欲しいということである。人に認めてもらわないと生きていけない。人はどうしたって、人の関心が欲しい。人の関心、承認が欲しいとは、人間の根本的な欲求である。なにもそれは恥じることでもない。ただ、気をつけなければならないのは、本当の健康的な人間関係の中で育てば、どんな自分にも関心を持ってもらえるし、どんな自分も承認してもらえる。でも、そうでなければ、ある価値の軸の中でしか認められないと思ってしまう。

 

 

人生を乗っ取られるな。

 

 

 

承認を求めすぎると、人生は乗っ取られる。自分の周りにはずるい人が集まる。差別的な人が集まる。逆に言うと、自分が集めるのである。そして、そういう人の承認をもし手に入れられたとしても、人生の霧は晴れない。それは自分が欲しいものではないからだ。

 

 

人間という生き物は本当に頭が悪い。

 

 

そう思うくらいがちょうどいい。我々は欲しくないものを欲しいと思い、誰かに認めてもらうために人生の貴重な時間を浪費する。しかし、人間は元々バカだった訳ではない。3歳児は賢い。自分にとってなにが好きか、なにが必要かをよく知っている。なぜ、そうなのか。

 

 

子どもには差別意識がない。

 

 

人間は、なにが好きかだけで生きている子どもに、偏見と差別意識を教育の名の下に植え付ける。差別意識は、人生を困難にする。人生を白黒にする。人生は意外とシンプルだ。人を傷つける価値観を持っていると、自分も同程度に傷つける。つまりは、そういうことだ。