途上にて

過去と未来の交差点

罪悪感

自分を責めることほどやっていけはいけないことはないのではないかと思う。

 

 

なにも間違いを開き直って認めなくてよいという意味ではない。人は間違いだったと思うことをやってしまうものだ。間違ったと思ったら、反省して改めればいいだけだ。

 

 

もし、あなたの大切な人が、家族でも、友人でも、同僚でも、誰かが間違い、そしてひどく傷つき落ち込んでいるときに、あなたはどうするか。決して責めはしないだろう。

 

 

なぜ、自分のことはひどく責めるのか。執拗に思い出しては繰り返し責めるのか。それは果たして誠実な態度なのだろうか。

 

 

自分も大切な人なのだ。

 

 

いじめはいけない。人を傷つけてはいけない。人の傷をえぐるようなことをしてはいけない。むしろ、ともに悲しみ、ともに癒していくべきだ。人は言葉で死ぬのだ。このことを忘れてはいけない。

 

 

自分いじめもいじめに変わりない。

 

 

毎日、自分が心の中で自分にかけている言葉をよく観察してみると、他人には決して言わないような自分を蔑むような言葉をかけていないか。自分が理想的でないこと、完璧でないことを、責め続けていないだろうか。それをどこかで誠実な態度と勘違いしていないだろうか。

 

 

罪悪感を持つことは一見誠実で真面目な人間の態度であるように思うが、僕は少し注意しないといけない感情だと思っている。罪悪感は、しばしば人が完全でないことを忘れさせる。人は間違うということ、そしてそのことを素直に反省するという態度を奪いかねない。

 

 

自分がすると判断したことに罪悪感を持つと反省の機会を失う。

 

 

人間は、自分がすることにあれやこれや理由をつける。誰がどうとか、環境がどうとか、そうせざるを得なかった、というような理由をつける。しかし、なにはともあれ、最終的に自分がそうしているのだ。

 

 

罪悪感と自責はセットだ。そして、いつまでも自分責めだ。執拗な自分責めは、自分いじめだ。いじめは良くない。いじめで人は死ぬ。人をいじめてはいけないならば、人である自分をいじめていいはずがない。

 

 

罪悪感と自責のセットは人生に要らない。必要なのは、反省と成長だ。人は不完全だ。必ず間違う。しかし、人は成長できる。成長こそが人間の救いだ。人格的成熟こそ、人生の一大事業なのだ。

 

 

もう自分を責めることをやめて自分を赦すのだ。自分を癒すのだ。そして、成長に向かうのだ。