途上にて

過去と未来の交差点

迷子

人は自尊心が深く傷つけられると、本当の気持ちは言わなくなる。本当に感じてることは抑圧される。そして、そのうち自分でも本当の気持ちはわからなくなる。

 

 

時として、自分にとって一番欲しいものをいらないと言ってみたり、一番気にしていることを別に気にしてないと言ってみたりする。これは特に珍しいことではなく、人間によく見られる防衛だ。

 

 

防衛過剰

 

 

人は裸になったときにはじめてコミニケーションが成り立つ。ありったけの嘘の服を着込んで私のありのままの感情を隠している状態でコミニケーションはできない。しかし、同時に防衛過剰になった人間が最も欲しいものはコミニケーションでもある。

 

 

偽りの良い子より、無邪気な自分勝手の方が愛される。

 

 

子どもはその典型だ。子どもはまさに自分の気持ちに正直だ。ありのままという言葉はよく使われるが、僕はありのままという言葉の意味は、自分が感じてるそのままに感じて良い、ということだと思っている。

 

 

ありのままでないとコミニケーションはできない。自分の本音を隠したまま他者とはつながれない。だから、いつしか忘れてしまった本音を思い出すのだ。

 

 

迷子になった私を救出に向かうのだ。

 

 

きっとどこかで泣いている傷ついた私がいる。自尊心を守るために、こういう私はダメだと置き去りにしてきた私がいる。その時は言えなかった言葉や、その時は禁じた感情がどこかで迷子になったままでいる。

 

 

迎えに行こう、私を。

 

 

それはまぎれもなく私だ。恥ずかしい私でも、情けない私でもない。誰かにそう言われたかもしれないが、そんなことは嘘っぱちだ。迷子になったままの私は、本当は大切な私なのだ。むしろ、私の核みたいなものだ。

 

 

人は無意識でいろんなものを感じている。その無意識で感じていることと現実に矛盾が生じると、意識がもっともらしい嘘をたくさんでっちあげてくれる。

 

 

でも、本当はわかってる。人間の無意識はいつも本当のことを知っている。誰かにこう思われるんじゃないかと恐れて、私を置き去りにしてきたことを知っている。私より誰かを優先してしまったことを無意識は知っている。だから、自信がないのだ。

 

 

他人にこう思われるんじゃないかと恐れることよりも、私が私を見捨てることの方がよっぽどおそろしいことだ。私が私であることを放棄することに比べたら、他人にどう思われるかということは取るに足りないことなのだ。

 

 

だから、迷子になった私を迎えに行こう。そして、その私と仲直りをしよう。

 

 

迷子になった私、それはまぎれもない、大切な私。