途上にて

過去と未来の交差点

時間

人生とは何かという問いに対しては、様々な答え方、表現があるだろう。僕が最近、切に感じていることがある。

 

 

人生とは、生まれて死ぬまでの時間である。

 

 

僕は今36歳になった。結婚して二人の子どももいる。ただ、今の人生がこのまま寿命まで続けばいいとはどこかで思ってはいない。今の生活に不満があるわけでもない。子どもはとても可愛いし、子どもとの関係もいい。しかし、それとは全く関係ないところで、僕は僕の人生にこれでいいという満足がないのだ。

 

 

誰が悪いわけでない。

 

 

僕らは自分の人生の問題の犯人探しをしている間に、あっという間に老いる。人間は究極的に自由なのだ。自らを不自由にするのは、自らの惰弱のみである。痛みに耐える覚悟さえ持てば、僕らは一秒後に自由になれる。

 

 

自由とは何か。

 

 

自由とは何かから逃れることではない。それを囚人の自由と呼んだ哲人がいたが、まさにその通りだと思う。監獄から自由になったからといって、どう生きるかはその人それぞれである。自由=ハッピーではない。自由はむしろ厳しい。厳しいからこそ、人は自らしばしば不自由を選択する。しかし、自由の厳しさに磨かれていない人間は、結局自己を獲得できない。「わたし」になれないのである。

 

 

厳しさで磨かれた人間はやはり美しい。全ての人間がそうなるべきだというようなことを言いたいわけではないが、自ら厳しさを選択して耐え抜いた人間の美しさというものは僕はやっぱりあると思う。そして、僕はそれに憧れている。それが、前にも触れた僕は自分の人生にどこか満足をしていないということにつながっていると思う。

 

 

一流のアスリートにしても、アーティストにしても、情熱を燃やす教育者にしても、仕事に人生を重ねている職人にしても、自らヒリヒリするような人生を選択している。そういった「本気」に僕は尊敬の念と憧れを抱く。そして、それは同時に、人生とは、生まれて死ぬまでの時間であるとしたら、僕は今、焦りを感じているのだ。

 

 

僕は老人ではない。でも、人生で初めて、自分は若くないということを受け入れ始めている。それは、今感じ始めたことではないけれども、どこかで先延ばししたり、解釈で乗り切ってきたものが、実感として迫ってきたとでもいうべきか。僕の子どもは、4歳の男の子と、1歳の女の子だ。僕がなにもしなくても、彼らには成長しかない。知らなかったことを知って、できなかったことができるようになり、体もどんどん大きくなる。頭脳も身体も成長しかない。

 

 

しかし、僕は生物としてのピークを終えた。そういうことをはじめて実感をともなって受け入れたのかもしれない。この先は厳しい。ほっておいても成長などはあり得ない。むしろ衰えさえかんじる。

 

 

成長できなければ、歳をとるとは、老いることでしかない。

 

 

子どもの無邪気さは、成長しかないからこそ持てるのかもしれない。大人は厳しい。成長するか、老けるか。この厳しさを突きつけられてる。残りの時間は厳しい。人格的に成長しなければ、身体的に退化するのみだ。人生とは時間だ。健康的に、能動的に動けるのが70歳までと仮定すると、自分は人生の半分の終えたという事実は、僕に突きつけるものは大きい。