途上にて

過去と未来の交差点

希望

人生に必要なのは間違いなく希望だ。

 

 

今、僕は間違いなくこう思っている。僕は、夢だ希望だ言うのは現実否認の甘い人間のすることだというような考え方の中で育ってきた。でも、繰り返しになるが、もう一度言いたい。人生に必要なのは間違いなく希望である。ではなぜ、人は夢や希望を否定するのか。それは夢や希望に敗れたからである。いや、もしかしたら、夢や希望を持ち、それに挑む勇気さえなかったのかもしれない。

 

 

希望を持つのは簡単である。誰でもできる。しかし、希望を持ち続けるのは意思がいる。根気がいる。勇気もいる。人間の成長に欠かせない要素が求められる。才能や環境や運が、人生を決定づけると思っている人には受け入れがたい事実であるかもしれないが、僕は希望を持たなければ人は堕落すると思っている。

 

 

この世は何をやっても自由なのである。

 

 

本当はこの世はかなり自由である。他人の目や評価を気にしなければ相当なレベルで自由なのである。しかし、我々の文化が最も苦手なのが自由でもある。本当は何をやっても自由なのである。人の数だけ人生がある、というのが本当なのだ。それなのに、誰かの価値観の枠の中で、誰かに認められようとして人は自らの個性を歪める。人は、他者の世界に土足で踏み込んではいけないのである。そこは、個人の聖域だからである。

 

 

強くなるのだ。

 

 

希望と自由は強い人間しか扱えない。僕は、僕の子どもたちには強くなってもらいたい。それは才能や能力の問題ではない。才能や能力も一つの強さには違いない。しかし、それだけが強さなら、自分より能力のある者が現れた瞬間に、自分は弱き者となるだけだ。僕がいう強さとは、他人をはねのける強さだ。自分の聖域を守る強さだ。自らの希望と自由を実現する強さだ。

 

 

人は一人で強くはなれない。それは他人をはねのける強さと矛盾するように思うかもしれない。しかし、他人も様々なのだ。人間にとって何が善で何が悪か。僕にはいまの結論がある。

 

 

自分に力を与えるものが善で、自分の力を削ぐものが悪である。

 

 

他人をはねのける強さというのは、自分の力を削ぐ他人の働きかけをはねのけるのだ、という意味である。人は一人では強くなれない。だから、僕は他者に力を与えられる存在でありたい。人生はいつもこれからだ。今この瞬間からだ。過ぎた時間はもう僕の人生ではない。

 

 

自分に力を与えてくれる他者と布陣を組んで、人生という戦場に出ていくのだ。

 

 

希望の燈をかかげて、自由に進んでいくのだ。