途上にて

過去と未来の交差点

無題

人間があれやこれや考えるのは、幸せではないからだ。あれやこれや悩むのは、誠実なわけでも、思慮深いわけでもない。僕はあるときそう気がついた。今の僕にもっともらしい理由をつけてあげるために、その最適解を探してるのだ。不毛で虚しい作業ではあるが、そうせざるを得ない、ということだ。

 

傷ついた人間はプライドが高くなる。文字通りのプライドの高さであればいいが、その逆の意味である。傷ついた自我を、偽りのプライドでなんとか守ってあげないといけない。自分で自分を守るというのを、幼き日々にしてこなければならなかった人間の切ないあがきだ。

 

甘えを禁じられた人間は弱くなる。表面的にはいくらでも強いふりはできる。平気な言葉はいくらでもはける。ただ、内面はおっかなびっくり、孤独と追放に怯えている。甘えるなという言葉は人を強くしない。人を強がらせるだけである。

 

相談しない人間とは、意志の強い人間でもなんでもない。周りに信じられる人間がいない環境で育った人間だ。何を隠そう僕のことである。もし何か、僕が重要だと思うことを相談しようものなら、そもそも重要なこととして扱ってもらえない、もしくは必ず嫌なことを1つは言われる、僕はそう感じていた。

 

自信があるとはどういうことだろうか。それはさまざまに定義づけられる。大体の場合は、何かができるという感覚、自分の持っている能力についての感覚、そのことを自信と呼んでいる気がする。でも、社会生活を送る上でもっとも力を持つ自信は、自分は他人に受け入れられるという感覚のことだと思う。

 

 

自分は嫌われる、めんどくさがられる、誰かの負担になる、というような感覚は、そもそも人と人との間で社会生活を営む力を破壊する。本当は晴れてるのに、自分のところだけ大雨が降っている、そんな世界で生きているようなものである。

 

 

人の前で、安心してその場に居られる。これは当たり前のようで、とても尊いことだ。無心で、にっこり笑って挨拶を交わせるような、そんな日々があれば、子どもはそれだけで生きていく力を育めると、僕は思っている。