途上にて

過去と未来の交差点

年月

時が経つのは早い。

 

 

本当に早い。僕もついこの前まで少年であった。そういう実感である。大げさにいうと、ついこの間まで高校生だった気分だ。そのくらいに時の流れはその流れをより早くすれど止まることはない。三十半ばになった。逆から考えてみると、自分が高校生だった頃、三十半ばの自分なんて想像もできなかった。この速度で、いや、さらに速度を増して、僕は四十半ばになるのだろう。

 

 

やり残してることはないか。

 

 

時が経つのは早い。この時の経つ早さというものは、その最中にあるときは気がつかないものだ。それが時間の恐ろしさである。今日、この瞬間にこの時の早さを感じることはない。時の早さはいつも振り返った時に感じるのだ。しばしば後悔とともに。こんなに時間が経ってしまった、というような気持ちとともに。後悔先に立たず、とはこの世の真理なのだろう。

 

 

年月の経過は、僕らの記憶を徐々に薄れさせていく。よっぽど意味を持つ人やことでない限り、昔であればあるほどその記憶は薄れていくものだ。そして、はっきりしなくなった記憶は脚色される。嘘をついているのではない。しばしば記憶に対する「事実」が異なるのは、人の記憶は脚色されるからである。記憶の脚色は、人の自尊心を救ってくれるのだ。真実は常に厳しい。人間が生きるには嘘が必要なのだ。

 

 

今日一日にさよならを告げよう。

 

 

後悔は過去への執着である。今日も過去になる。明日も過去になる。そして、過去が僕たちの前に現れることは二度とない。もう二度と会えない人に、今生の別れを告げる時、人は何かを躊躇うだろうか。いや、それでも人はどこかで怯え、どこかで恥ずかしがり、うじうじもじもじしてしまうかもしれない。でも、それはきっと後悔に変わる。

 

 

 

後悔とは、全力を尽くさなかったことに対する後ろめたさなのだ。

 

 

 

今日は、終わってしまえば、二度と会えない一日なのだ。今日を怯え、今日を恥ずかしがり今日が去っていってしまったら、今日という一日は、過去という亡霊になって僕たちを縛り付ける。成仏できなかった一日は、また成仏できない一日を呼び、一日は月日へと積み重なる。

 

 

 

人生はいつもいまここから。

 

 

生きていることが人生であるなら、人は過去に生きられない。過去はもう人生ではない。自分の人生はいま生きていることでしかない。過去には別れを告げるのだ。それが美しいものであれ、醜いものであれ。僕たちは過ぎていった日々に別れを告げなければいけない。どんなに名残惜しくても、さよならを告げるのだ。離れ離れになった友人を忘れることがないように、さよならを告げたからといって、大切な記憶はなくならない。

 

 

過去に別れを告げ、今と向き合う。

 

 

過去の事実は変わらない。だが、過去の解釈は変わる。もし、今が本当に幸せであるならば、過去の悲しい出来事や悲惨な気持ちさえ、あの時の経験は糧になったと思うのが人間なのである。過去が暗く見えるのは、今幸せではないからなのだ。人は過去の延長線上に生きているのではない。昨日とは関係のない新しい一日が与えられている。今日をはじめるのだ。