途上にて

過去と未来の交差点

憂鬱

僕の経験からして、憂鬱な気分の背後には、怒りが隠されている。怒り、イライラ、攻撃性、そういったものを抑圧している。なぜ抑圧するか、それはそういった感情は、よくないものである、と思っているからだ。

 

 

憂鬱な感情は、従順に生きてきた人間の行き詰まりなのだ。これほどまでに、自分を殺して、他人の顔色や感情を優先させ、わたしを後回しにしてきた怒りだ。誰だって、大切にされることを望むのは当然のことなのに、自分が大切に扱われなくても、それを飲み込んできた怒りなのだ。

 

 

反逆せよ。

 

 

世の中でも、他人にでもない。今までの自分に反逆するのだ。自分の自分に対する革命、コペルニクス的転回である。

 

 

自分が、自分のために生きて、自分が苦しみの中で、何かを得ようともがいているときに、その変化を否定してくるような人を頼りにしてはいけない。

 

 

彼らは、一人間である。人類の裁判官でも、真理の人でもなんでもない。人の評価を当てにするな。

 

 

人は当てにならない。

 

 

これは、自分にも言える。人間は、ありのままに、世界も他人も見えはしない。自分が思い込んでいるように見ているだけだ。自分にとって都合がいいように、われわれは解釈を加えて、世界を眺めているだけなのだ。

 

 

自分が尊敬する人以外の言葉を聞く必要はない。

 

 

これは、僕が、いつかのタイミングで、僕の子どもに言ってあげたい言葉である。

 

 

自分を頼れ。

 

 

それが間違いでも、うまくいかなくても。最後は必ずうまくいくと勝手に決めて、全ての判断を自分でするんだ。いくら正しかろうと、人生の選択を他人に決めてもらって、自己の獲得も、人生の充実もない。

 

 

憂鬱に反逆するのだ。

 

 

抑圧した怒りで、憂鬱に反逆するのだ。自分がダメだというのは単なる思い込みだ。どうせ思い込みなら、怒りとともに、わたしは本当はこんなもんじゃないと思い込めばいいじゃないか。人は、思い込みの中に生きている。自分の理性が、世界を正しく捉えられるなんて思わないほうがいい。

 

 

今日の自分は、なるべくして今日の自分になっている。

 

 

自分を責めるな。あらゆる自分を受け入れよ。自分が自分を味方しなくて、支えなくて、誰が自分を助けてくれるか。

 

 

今日から、小さなことから、はじめるのだ。