途上にて

過去と未来の交差点

手を伸ばす

僕はそれでも手を伸ばしたいと思う。手をこまねいてもじもじしてる自分とはさよならしたいと思ってる。あの狐のように、あれは酸っぱいからと、本当にほしいものに手を伸ばすことをやめ、あたかも本当は欲しいものを、欲しくないようなふりをするのをやめにしようと思う。

 

僕はどこかで、自分の欲、人間の欲を醜いものと思っていたふしがある。だから、それを見せるのが、それを見られるのがとても怖かった。それで、自分の欲は極力見せないように生きてきた。しかし、そんな僕にこそ最大の欲があったのだ。

 

人に悪く思われたくない。

 

この欲ほど僕にとって、強い欲はなかった。欲を醜いと思っていた僕の、最大の欲だ。偽りの、美化された、自己イメージ、これを守りたいというのが僕の最大の、そして拭いきれない、とても強い欲だったのだ。

 

人間は、人間のように生きていくものだ。

 

こんな一節を、どこかの小説の中で読んだ記憶があるが、今はこの一節の意味がよくわかる。当たり前だが、僕は聖人君子でもなければなにでもない。ただの一人間だ。僕は傷つきやすい、怖がりの、弱い人間なのだ。間違いもするし、ずるいことだってやる。咄嗟に嘘もつくし、人だって傷つけてしまう。僕という人間は、そういう人間だ。

 

人は欠点があるから、未熟だからといって、生きていてはいけないわけではない。

 

それでも、僕がこんなに立派なふりをし続けてきたのは、そういった人間は否定されるべき、だと思っていたからに他ならない。僕は今、正直であろうと思う。表面的な寛容さの裏に、僕は他人に対してとても厳しい目を持っていたのだ。心の中では、他人を裁いて、裁いて、裁きまくっていた。

 

結局、どんな言い訳をしたって、僕はあらゆる人間をカテゴライズして、心の中で評価していたのである。そして、その厳しい目に、評価に、同時に、僕自身という人間は、怯えていたのである。

 

評価というものにまつわる傲慢さというのは、なにも誰かをけなすことだけではない。素晴らしいともてはやすのも、けしからんとたたきのめすのも、結局、他人を評価する、という行為に他ならない。しかし、聖書に神はこう命じる。

 

 

裁くな、さらば裁かれん。

 

 

自分が裁かれる番が来た。僕はぐうの音も出ない。