途上にて

過去と未来の交差点

正しさとあたたかさ

正しさは万能の真理ではない。

 

 

そもそも人は間違うし、絶対的な正義を見つけられるほど人間の理性は万能ではない。正しいことなんて時代によって変わるのだ。これは真実だ。天災が起こらないように生娘を生け贄に出すのも、有色人種を差別するのも、女性には選挙権がなかったのも、ほんとは間違ってるんだけれどと思いながらやってきたわけではない。むしろ正しいこととしてやってきたという方が近いだろう。

 

 

 

人間の理性はしばしば当てにならない。

 

 

正しさにすがりついてはいけない。正しさを振りかざしてもいけない。正しさは自らを律するために一人で実践することだ。その姿に感動した誰かに影響を与えることはあっても、わざわざ正しさを喧伝する必要はない。

 

 

人にはあたたかさが必要だ。

 

 

正しさよりもあたたかさの方がずっと人に良き影響を与える。正しさがなくても人は死なないが、あたたかさがなければ人は死ぬ。あたたかさがなければ、体としても死ぬし、心としても死ぬ。ほっとあたたかい気持ちになったことが最近あっただろうか。おそらくほとんどないのではないだろうか。あたたかさがなければ人は死ぬという状況で、あたたかさを感じることがほとんどないとするならば、人は死にそうになりながらなんとか生きているということだ。

 

 

 

現代社会はあたたかさ不足、正しさ過剰なのだ。

 

 

 

現代のこの殺伐とした空気感はまさにここから来ていると思う。何度も言うが、人は必ず間違う。自分が間違わないともし思ってるなら、それはおそらくかなり幼稚だ。間違うのが当たり前の人間にとって正しさは、あくまで目標であってノルマではない。人が正しくないからといって徹底的に叩くのは、明らかに正しくない。正しくない人間を多数で叩き続けるのも、明らかに正しくない。この世は間違いだらけなのだ。

 

 

 

あたたかさを感じてる人間は人を傷つけない。

 

 

 

傷つける必要はないからである。なぜ人は人を傷つけるか。それは生存をかけて人を傷つけるのだ。心理的生存をかけて他人と争っているのだ。もし、100人の人がいて80人分を生かす食料しかないなら争いになるだろう。20人にならないための争いがはじまる。心理的にも同じことが起こる。あたたかさを感じていない人間は自分の生存をかけて戦っているのだ。この人間社会から排除されまいと、なんとか生き残ろうと人と争ってるのだ。それはもちろん虚構だ。でも、この虚構の中に生きているのが人間なのだ。それほど人間の理性は当てになるものではない。