途上にて

過去と未来の交差点

人生とは

人生とは、この問いなくして人生ははじまらない。そんなことを考えなくても、もちろん人は生きてはいける。命が続くという意味においては、今この世に生きている全ての人が人生に成功してる。生きていられる限り、何も問題はないのである。

 

 

ところが、なぜここまで多くの人が、人生に失望し、時には自ら命を絶ち、命を絶つまではせずとも、憂鬱な感情を抱えたまま日々の生活をただこなしているだけ、というような状態になってしまうのだろうか。それは、人は、人生とは、と問うことから逃れられないからである。

 

 

何も、人生を複雑にし、物事を難解にし、小難しいことを考えることが、人生とは、という問いだというつもりは毛頭ない。難しいことなんてどうでもいいんだ。自分は自分の好きなことをし、快楽に従って生きていくんだというならば、その人にとっての、人生とは、の問いの結論は出ているのだ。人生観は無数にある。

 

 

人は、人生とは、の問いから逃れられない。人生とは、の問いの最終結論など、人生の途上で出るものではないのは、当たり前だ。でも、人は、人生の途上で、その時の結論、それは仮の結論であっても、仮定であっても、それなりに、人生とは、の問いに一旦答えを出さなければいけない。人生が苦しいのは、簡単にいうと、この決断をしない、もしくは先送りにし続けてる、ということではないだろうか。

 

 

たとえその答えが間違っていたとしても、自分で自分の現在の答えを出さなければ、その空白に、他人がズケズケと他人の答えを書き込んでくる。自分の答えを自分で出さなければ、人は簡単に他人に人生を乗っ取られる。何かモヤモヤする、気分が晴れない、人生に充実がないというのは、他人に書き込まれた答えを自分の答えのように思い込んで、ただそれをなぞっているからかもしれない。つまり、そこに自己はない。意識的か無意識かは別として、操り人形が誰かの舞台で踊っているのと同じだ。

 

 

人生とは、その問いに僕らが答えを出せなくなるのは、自分の感性が、自分の判断が、未熟であり、誤りであると、人生の過程で思い込まされたからである。だから、僕らは、常に自分の選択が、周囲の人間や、世間や、常識より劣っているといつの間にか感じているのだ。

 

 

自分の感性や判断が、常に他人の感性や判断より劣っている。

 

 

この思考に支配され、いつも自分より、自分以外の何かを優先して生きているのなら、自分はますます頼りなくなるのは当然である。人生とは、この問いに正しい答えなどない。しかし、この問いには、自分で答えなければならない。僕らは、たとえ、それがどのような結果になろうとも、人生とは、この問いに自分で答えない限り、人生は憂鬱なままで、その霧が晴れることはないのだ。