途上にて

過去と未来の交差点

劣等感

僕はときどき、自分がとてもダメな人間のような気がして、ひどく気が重くなることがある。ここ最近も、正直言うと、そんな状態が続いている。

 

 

自分を責める癖と、自分は他人に受け入れられないという感覚は、僕のこれまでの一生を支配している。なんとかして自信を獲得しようと生きてきたけれど、劣等感というのは、何かを手に入れたからといって消えるものではない、ということが、今はなんとなくわかっている。

 

 

つまり、以前にも触れたように、僕は僕自身が好きではないのだ。そんな態度は間違っているし、そもそも自分で自分を嫌うようなことは、人間として最も卑屈な精神であることはよくよくわかっている。だけど、ときどき、どうしようもないこの感覚が僕を襲ってくる。その化け物に取り憑かれたら、もう自分ではどうしようもなくなる。

 

 

人間は、自分という人格を一人で作ってきたわけではないように、自分の悪癖を本気で変えたいならば、誰かの力をかりるべきなのかもしれない。健康的で、寛容な、そして人間というものに対する理解が暖かい、そんな人間の助けをかりて、少しずつ少しずつ、何十年かけて作り上げた、自分像を修正していくしかないのかもしれない。

 

 

否定的な思考癖は、人生を破壊する。

 

 

肯定的で前向きな言葉の中では生きてこなかった。いつも批判、否定、ケチをつける、そんな言葉の中で生きてきた。僕は、僕自身との自己の獲得の戦いに敗れたのか。否定的な感覚を、無理やり絞り出した肯定的な言葉によって塗りかえようとする、僕の中での戦いに。

 

 

僕の親世代の老人たちは、いよいよ人生の最終章の幕が上がった。人生の最終章にあたり、空虚感と憂鬱、イライラや憎しみに苛まれている人は少なくはない。彼らに共通するのは、自分の人生を自分で決めてこなかった、という点だ。人生のもろもろの理由をいつも誰かを理由にしている。夫のため、子どものため、親のためと。

 

 

自分で自分の人生を決めなければ、人生の最後にとんでもない憂鬱が待っているのだろう。何かを理由にして、自分の人生に挑まないと、自己は獲得できない。人生は選択の連続だ。日常のほんの些細な選択を、一つ一つ自分でしていくこと。誰かに認めてもらうためではなく、自分を理由として、自分の責任において、一つ一つ自分で決める。その積み重ねこそが、この化け物との戦いに勝つ唯一の方法なのだろう。