途上にて

過去と未来の交差点

酸っぱいぶどう

僕にとっての「ぶどう」はなんだったのだろうか。それは、「人とつながりたい」であったと思う。誰かと真につながりたい。でも僕の無意識は反対にそれを拒否している。僕の無意識に刻み込まれた劣等感が人を拒むのだ。近くなれば、僕の全てが見える距離になれば、必ず僕は嫌われる。その信念が誰かを求めながら、誰かを拒否する。

 

僕は最終的には、必ず嫌われる。その信念はどこから来るのか。

 

そう、それは僕は僕という人間が嫌いだからだ。

 

愛がわからない。この世界中で最もよく使われる、とてもありふれていて陳腐ではあるが、誰もが求め、憧れ、挫折し、傷つけられる、その言葉。この世で一番大事だと言われ、大量消費されるその愛が、僕には実感としてわからないのだ。愛のようなものはなんとなくわかる。でも、こんなにも僕が不安で、苦しいのは、愛というものがわからないからだろう。もし仮に、僕が愛というものに出会っていたならば、僕はもう少し安心して生きてこられたのではないだろうか。

 

僕が愛というものをわからないということは、同時に、僕も愛することができないという事実を突きつけられる。わからないものを人はどうやって与えることができるというのだろう。そうなのだ、僕には愛する能力がない。このことも僕の無意識はきっととらえているのだろう。愛する能力がないから、人とつながれないということを僕の無意識は知っているのだ。

 

だから、僕は誰かと接する時、その人に尽くしたり、与えたり、親切にしたり、優しくせずにはいられない。せずにはいられない、これは本当に適切な表現だと思う。なにか僕が相手に対して、なにかしら与えるものがなければ、僕はその人の前にいるのがとても困難な気持ちになるのだ。人と接する時に安心感がない。このことをはっきり自覚したのは、大人になってからだが、これは僕の人生をとても窮屈なものにしている。なぜなら、

 

 

生きるとは、人と関わることだからだ。

 

 

愛に憧れ、愛に挫折した僕だが、愛とはなんであろうかと考えた。愛とは与えることではない。一生懸命に犠牲になって誰かに尽くすことでもない。今、僕は愛とはなにかと問われるならば、こう答える。

 

 

愛とは、その人の幸せを心から願うこと。