途上にて

過去と未来の交差点

憂鬱を迎え撃て

自分のことをどう思っていようとそれは幻想だ。

 

 

自分はすごいと自惚れていようと、自分はダメだと卑屈になっていようと、それはどちらにせよ幻想なのだ。幻想だから、それはさして意味がないわけではない。むしろ逆だ。この幻想が自分の世界そのものなのだ。幻想そのものが、人間の全てなのだ。

 

 

人間の幻想を無意味なものとして剥ぎ取っていくと、玉ねぎのように最後には何も残らない。もし残るとしても、生命維持活動のみを営む生物でしかない。花を活けることも、可愛い服を着ることも、料理を美しく盛ることも、なんの意味もない。違う、真逆なのだ。こういったことこそが人間が生きるということなのだ。私を大切にするために、私を喜ばせるために、そして、あなたを大切にするために、あなたに喜んでもらうために、様々なことを営む、それが人間が生きるということなのだ。

 

 

自分の幻想はどうやって作られたのか。

 

 

 

これを理解することは、つまり自分を知ることである。私の幻想がどういう幻想で、どうやって作られたのか。その幻想こそを人は自分と呼んでいるのだ。人を傷つける人はたくさんいる。人を嫌な気持ちにさせることをいう人もたくさんいる。彼らの正体は憎しみを抑圧した人である。本来怒りをぶつけるべき人を恐れ怒りを抑圧し、その抑圧は憎しみと変わって心の奥底にこびりつく。

 

 

憎しみを抱えた人に意味を持たすな。

 

 

世の中にはいたるところにそういう人がいる。いたるところに人を傷つけたい人がいる。わかりやすい暴力、暴言から、冗談、嫌味、からかい、皮肉、意地悪。彼らと馴れ合ってはいけない。

 

 

自分を不快にするものはちゃんと拒否するのだ。

 

 

以前、人間に善悪を区別する理性はない、というようなことを書いたが、唯一人間が頼っていい判断基準は、自分に力を与えるものが善で、自分の力を削ぐものが悪である、ということである。この自分の力を削ぐものに嫌々馴れ合うことが憂鬱の原因である。今日も、不快に馴れ合うその予感が憂鬱なのである。

 

 

憂鬱を迎え撃て、そして自分を守れ。

葛藤

人は常に引き裂かれる。理想と現実、わたしと他者、個人と社会、成長と退行、自立と依存、自由と保護、真実と嘘、真逆の概念の間で、人は常に葛藤にさらされる。どちらかというわけではない。われわれは、矛盾する概念の間を、常に行ったり来たりしているものだ。

 

 

人間は、固定された、一個の人格を持っているわけではない。

 

 

人は常に変わっていくものだ、成長していくものだ、退行していくものなのである。どんなに、僕がこういう人間だと、自分を定義していたとしても、それはその一瞬の僕を定義できたとしても、それすらあやしいのだが、その僕は不変の僕ではない。

 

 

人が理想的である、ということはあり得ない。

 

 

人は常に変わっていくものだ、という前提があるとすると、人は理想的であるということはあり得ない。理想は変えるべきことがないからだ。

 

 

人は正反対の概念の間を行ったり来たりしながら、常に変化しながら、理想に向かうべきものだ。僕はそう捉えている。

 

 

人間である自分に、無謬を求めてはいけない。僕は常に間違う。その可能性を常に抱えて、僕という人間は生きている。

 

 

僕は間違う、間違うものなのだ。無謬の自分を求めてはいけない。僕は常にそのことを自分に言い聞かせて生きていきたい。

憂鬱

僕の経験からして、憂鬱な気分の背後には、怒りが隠されている。怒り、イライラ、攻撃性、そういったものを抑圧している。なぜ抑圧するか、それはそういった感情は、よくないものである、と思っているからだ。

 

 

憂鬱な感情は、従順に生きてきた人間の行き詰まりなのだ。これほどまでに、自分を殺して、他人の顔色や感情を優先させ、わたしを後回しにしてきた怒りだ。誰だって、大切にされることを望むのは当然のことなのに、自分が大切に扱われなくても、それを飲み込んできた怒りなのだ。

 

 

反逆せよ。

 

 

世の中でも、他人にでもない。今までの自分に反逆するのだ。自分の自分に対する革命、コペルニクス的転回である。

 

 

自分が、自分のために生きて、自分が苦しみの中で、何かを得ようともがいているときに、その変化を否定してくるような人を頼りにしてはいけない。

 

 

彼らは、一人間である。人類の裁判官でも、真理の人でもなんでもない。人の評価を当てにするな。

 

 

人は当てにならない。

 

 

これは、自分にも言える。人間は、ありのままに、世界も他人も見えはしない。自分が思い込んでいるように見ているだけだ。自分にとって都合がいいように、われわれは解釈を加えて、世界を眺めているだけなのだ。

 

 

自分が尊敬する人以外の言葉を聞く必要はない。

 

 

これは、僕が、いつかのタイミングで、僕の子どもに言ってあげたい言葉である。

 

 

自分を頼れ。

 

 

それが間違いでも、うまくいかなくても。最後は必ずうまくいくと勝手に決めて、全ての判断を自分でするんだ。いくら正しかろうと、人生の選択を他人に決めてもらって、自己の獲得も、人生の充実もない。

 

 

憂鬱に反逆するのだ。

 

 

抑圧した怒りで、憂鬱に反逆するのだ。自分がダメだというのは単なる思い込みだ。どうせ思い込みなら、怒りとともに、わたしは本当はこんなもんじゃないと思い込めばいいじゃないか。人は、思い込みの中に生きている。自分の理性が、世界を正しく捉えられるなんて思わないほうがいい。

 

 

今日の自分は、なるべくして今日の自分になっている。

 

 

自分を責めるな。あらゆる自分を受け入れよ。自分が自分を味方しなくて、支えなくて、誰が自分を助けてくれるか。

 

 

今日から、小さなことから、はじめるのだ。

 

 

理想と現実

悩みの正体は、理想の自分にしがみついている、ということだと思う。

 

 

そのことを逆から言えば、現実の自分を嫌がって拒否している、とも言える。

 

 

理想の自分を諦めた時、人は人格的に死ぬ。

 

 

夢や希望、理想を諦めた時、残りの人生は消化試合と化す。

 

 

僕らの根本的問題は、自分を持て余している、ということだと思う。

 

 

もし、悩みの中にあるなら、思い出すといい。あなたの理想は、現実のあなたより、ずっと高かったはず。

 

 

「現実の自分を嫌うな。そして、理想を諦めるな。」

 

 

わたしから、わたしへ。

 

そして、これを読んでくれたすべての人へ。

人生とは

人生とは、この問いなくして人生ははじまらない。そんなことを考えなくても、もちろん人は生きてはいける。命が続くという意味においては、今この世に生きている全ての人が人生に成功してる。生きていられる限り、何も問題はないのである。

 

 

ところが、なぜここまで多くの人が、人生に失望し、時には自ら命を絶ち、命を絶つまではせずとも、憂鬱な感情を抱えたまま日々の生活をただこなしているだけ、というような状態になってしまうのだろうか。それは、人は、人生とは、と問うことから逃れられないからである。

 

 

何も、人生を複雑にし、物事を難解にし、小難しいことを考えることが、人生とは、という問いだというつもりは毛頭ない。難しいことなんてどうでもいいんだ。自分は自分の好きなことをし、快楽に従って生きていくんだというならば、その人にとっての、人生とは、の問いの結論は出ているのだ。人生観は無数にある。

 

 

人は、人生とは、の問いから逃れられない。人生とは、の問いの最終結論など、人生の途上で出るものではないのは、当たり前だ。でも、人は、人生の途上で、その時の結論、それは仮の結論であっても、仮定であっても、それなりに、人生とは、の問いに一旦答えを出さなければいけない。人生が苦しいのは、簡単にいうと、この決断をしない、もしくは先送りにし続けてる、ということではないだろうか。

 

 

たとえその答えが間違っていたとしても、自分で自分の現在の答えを出さなければ、その空白に、他人がズケズケと他人の答えを書き込んでくる。自分の答えを自分で出さなければ、人は簡単に他人に人生を乗っ取られる。何かモヤモヤする、気分が晴れない、人生に充実がないというのは、他人に書き込まれた答えを自分の答えのように思い込んで、ただそれをなぞっているからかもしれない。つまり、そこに自己はない。意識的か無意識かは別として、操り人形が誰かの舞台で踊っているのと同じだ。

 

 

人生とは、その問いに僕らが答えを出せなくなるのは、自分の感性が、自分の判断が、未熟であり、誤りであると、人生の過程で思い込まされたからである。だから、僕らは、常に自分の選択が、周囲の人間や、世間や、常識より劣っているといつの間にか感じているのだ。

 

 

自分の感性や判断が、常に他人の感性や判断より劣っている。

 

 

この思考に支配され、いつも自分より、自分以外の何かを優先して生きているのなら、自分はますます頼りなくなるのは当然である。人生とは、この問いに正しい答えなどない。しかし、この問いには、自分で答えなければならない。僕らは、たとえ、それがどのような結果になろうとも、人生とは、この問いに自分で答えない限り、人生は憂鬱なままで、その霧が晴れることはないのだ。

劣等感

僕はときどき、自分がとてもダメな人間のような気がして、ひどく気が重くなることがある。ここ最近も、正直言うと、そんな状態が続いている。

 

 

自分を責める癖と、自分は他人に受け入れられないという感覚は、僕のこれまでの一生を支配している。なんとかして自信を獲得しようと生きてきたけれど、劣等感というのは、何かを手に入れたからといって消えるものではない、ということが、今はなんとなくわかっている。

 

 

つまり、以前にも触れたように、僕は僕自身が好きではないのだ。そんな態度は間違っているし、そもそも自分で自分を嫌うようなことは、人間として最も卑屈な精神であることはよくよくわかっている。だけど、ときどき、どうしようもないこの感覚が僕を襲ってくる。その化け物に取り憑かれたら、もう自分ではどうしようもなくなる。

 

 

人間は、自分という人格を一人で作ってきたわけではないように、自分の悪癖を本気で変えたいならば、誰かの力をかりるべきなのかもしれない。健康的で、寛容な、そして人間というものに対する理解が暖かい、そんな人間の助けをかりて、少しずつ少しずつ、何十年かけて作り上げた、自分像を修正していくしかないのかもしれない。

 

 

否定的な思考癖は、人生を破壊する。

 

 

肯定的で前向きな言葉の中では生きてこなかった。いつも批判、否定、ケチをつける、そんな言葉の中で生きてきた。僕は、僕自身との自己の獲得の戦いに敗れたのか。否定的な感覚を、無理やり絞り出した肯定的な言葉によって塗りかえようとする、僕の中での戦いに。

 

 

僕の親世代の老人たちは、いよいよ人生の最終章の幕が上がった。人生の最終章にあたり、空虚感と憂鬱、イライラや憎しみに苛まれている人は少なくはない。彼らに共通するのは、自分の人生を自分で決めてこなかった、という点だ。人生のもろもろの理由をいつも誰かを理由にしている。夫のため、子どものため、親のためと。

 

 

自分で自分の人生を決めなければ、人生の最後にとんでもない憂鬱が待っているのだろう。何かを理由にして、自分の人生に挑まないと、自己は獲得できない。人生は選択の連続だ。日常のほんの些細な選択を、一つ一つ自分でしていくこと。誰かに認めてもらうためではなく、自分を理由として、自分の責任において、一つ一つ自分で決める。その積み重ねこそが、この化け物との戦いに勝つ唯一の方法なのだろう。

 

 

 

わたしであるということ

人はみな、大切にされなければいけない。

 

 

大切にされなければ、人は正しさに逃げ込む。あいつはどうだとか、こいつはなんだとか、おかしい、正しい、間違ってるだなんの、そんな合戦がはじまる。この世に、すべての人間を統べる、こうあるべきだ、ああすべきだ、なんてものは、本当はなにもないのだ。

 

 

わたしは、こう思う、わたしはこうしたい、わたしは好きだ、嫌いだ、それがあるだけだ。

 

 

わたしはわたしであっていいのだ。わたしがわたしであることを、自分に許可できないまま、苦しみながら生きてる人は、思いの外多い。この世で一番意味のある言葉は、わたしはわたしでいい、かもしれない。

 

 

わたしはわたしでいい、人がそう思えば、最終的に、あなたはあなたでいい、というところにたどり着ける気がする。気がするというのは、僕もまだそんな境地にはたどり着けていない、ということだ。未熟であることを自分に許すことは、立派であるふりをすることよりずっと尊い

 

 

僕はこんな人間です、あなたに見えるままの人間です。どうぞご自由にご覧ください。そう思えたら、人はどんなに楽だろうか。こう思われたくない、ああ思われたくない、こんなふうに思われちゃうんじゃないか、いや、違うんだ、そんな感情に支配されてしまうと、コミニケーションなんてできない。

 

 

人は大切にされなければならない。そもそもの自分を、大切に大切にされて大人になるべきである。生まれたばかりの赤ちゃんに、憎しみの人はいない。人は、傷つけられ、傷つきながら、人を憎むことを覚える。

 

 

こうあるべき、ああすべき、あの人は正しい、間違ってる、人にこの世の真理をみわける理性など備わってはない。

 

 

人生において、100の正しさよりも、1の優しさ、1の明るさの方がよっぽど役に立つ。自分をいくら責めて、自分を変えていっても、自分で自分を励ませなければ、自分で自分を勇気付けられなければ、人生は前に転がらない。

 

わたしがわたしであることを引き受けなければ、わたしの人生ははじまらないのだ。得体の知れない、世間や、社会や、空気や、常識に翻弄されるだけの人生になる。

 

 

わたしはわたしでいい、あなたはあなたで。