途上にて

過去と未来の交差点

愛する能力

愛する能力のある人はまれである。

 

 

これは僕が大人になってから気がついた一つの大きな発見であった。愛する能力とは何か。それは、その人の気持ちが想像できる、その人の立場で見られる、ということだと思う。そしてこれは大人になったからといって誰しもができるものではない。年齢が上がると自動的に身につく能力でもない。あなたのためと言って人がある価値観を押し付けるのも、親が子どもの人生を心配をするのも、愛するということではい。ただ、自分はこう思う、自分は不安であるの投影にすぎない。それは相手の気持ちへの想像がないからである。相手が不快に思うのに、いくら正しいことを言ったって聞き入れるわけはない。そしてそれはほとんどの場合、正しいことでもなんでもない。はいとたとえ返事をしても、本当は聞いてはいない。本当は聞いてないことさえ気がつかないし、そして時として、更になんであいつはとなるのだから相手への関心はない。

 

 

 

自分の話を心から聞いてもらったことはあるだろうか。

 

 

人はどんな人間だって何も感じてないわけでも、何も考えてないわけではない。どんなに小さな子どもにしても。愛する能力の一番シンプルな尺度は、人の話が聞けるかどうかだと思う。子どもの話を一生懸命聞ける親は愛する能力が高い。子どもに自分の考えを聞かせるばかりの親は愛する能力は低い。子どもより自分が常に正しいと思っている親は子どもを伸ばすことはできない。これは僕がそれなりの子どもに勉強を教えてきてわかった真実だと思ってる。子どもの成長は、子どもの能力というよりは、親の心理的豊かさに比例すると感じている。

 

 

過干渉も無関心も根は同じ。

 

 

共通するのは、相手に対する関心がない。自分とは違う他者に対する配慮や尊敬がない。他人に関心がないから、ズケズケと他人の望んでないことに干渉できるし、他者に興味がないから、他人に対して無関心でいられる。

 

 

 

私の気持ちや、私の考えを大切にされたと感じたことのない人の人生は果てしなく厳しいものとなる。なんでもない日常が常に緊張状態である。ありふれた一日は精一杯の一日なのだ。何かが大変なのではない。いつも心がいっぱいなのだ。だから、もし心がいっぱいになったときは、つらくなった時は決して自分を責めるときではない。ああ、私はこんなにつらい人生をこんなに耐えて頑張ってきたのだなあと自分を癒すときである。私の気持ちをくみとってもらったことがないのだから、せめて自分は自分の気持ちをわかってあげるときなのだ。

 

 

まずは自分を大切に、そして自分の大切な人を大切に。

いい人

息苦しい原因は「いい人」になろうとするからだ。

 

 

自分がいい人になりたいならそれは素晴らしいことだろう。だが、だれかにいい人と思われようとするならそれは訳が違う。いい人になりたい、そういう積極的な気持ちなら何も悩むこともないだろう。しかし、悪い人に思われたくないとなると、これは地獄の入り口になりうる。もし、だれかの理不尽を受け入れるなら、だれかに都合よく扱われるなら、自分もそのだれかに同じようにしていいはずだ。ただ、一方的にだれかにとっていい人であるということは、ただの都合の良い人間でしかない。

 

 

自分を軽く扱われることに慣れてはいけない。

 

 

だれかに軽く扱われるなら、それは自分が自分を軽く扱ってるからだ。理不尽なことであるが、同じことをしても、同じことを言っても、怒られる人間と怒られない人間はいる。許される人間と、許されない人間がいる。言いやすい人間、怒りやすい人間、八つ当たりしやすい人間はいるのだ。人間は本能的にそれがわかる。心の中で、自分はダメだとか、自分は何もできないとか、自分に自信がない、自分に失望している人間は必ず嗅ぎ分けられてる。自分の自尊心が低いと、他人の侮辱に気がつかない。なぜなら、いつも心の中で、自分が自分をいじめてるから、責めているからだ。

 

 

人を大切にしなさいとは

 

 

僕は、自分の子どもたちに人を大切にするんだよ。人を傷つけちゃいけないともちろん言うつもりだ。だけど、僕はその後にこう付け加える。人ってのはもちろんキミたちも含まれる。だから、自分を大切にしないといけないし、自分が傷つけられるのを受け入れてはいけないと。

 

 

 

僕らは、友人や他人には絶対に言わないことを、自分自身にはよく言っている。例えば何か失敗して、ひどく落ち込んでいる友人に、だからお前はダメなんだとは誰も言わないだろう。なんてお前はバカなんだとも言わないだろう。それでも、自分が失敗したときにはひどく落ち込み、情けなさでいっぱいになり、本当に自分はダメだとか、本当に自分はバカだとか、そんなことを心の中でつぶやいてるのではないだろうか。

 

 

 

いい人を演ずるあまり自分を傷つけてはいけない。

 

 

人間は誰しも失敗するし、誰しも自分がかわいいものだ。誰も自分の失敗や欠点を積極的に晒しはしないし、むしろ取り繕うと必死になっていたりさえする。人を責める人の餌食になってはいけない。そんな人に気に入られなくてもいい。失敗は失敗、間違いは間違いで素直に認めて反省してやり直せばいい。自分の理想通りにいかないからといって自分を責めてはいけない。

 

 

 

金曜

4歳の子どもを幼稚園に迎えに行こう。今日は金曜日、今週の幼稚園も終わりだ。ポケットにわずかばかりの小銭を入れて、歩いて迎えに行く。道草をしながら、いろんな話をして、ゆっくり時間をかけて家に帰ろう。用水路に葉っぱを浮かべて追いかけたり、看板のひらがなを一緒に読んだり、花の名前を教えてあげたり、楽しいことはたくさんある。毎日食べたがる大好きなお店のアイスクリームも、今日は食べさせてあげよう。

 

 

きっと、途中から歩かなくなるけど、肩車ってねだるだろうけど、もったいぶらずにできることはやってあげよう。

 

 

僕はキミに何か与えてるわけではない。僕が一方的にキミのことが好きなんだ。キミのおかげで、僕は人を喜ばせる幸せを経験できる。

 

 

土曜日、百均で買った花火だけど、キミは暗くなるのが待ち遠しくて、花火を抱いたまま寝ちゃったね。

 

 

今日は、とても眠いはずだけど、なんとか起きてた。美しいよ。僕にはもうそんな瑞々しい感激はない。頑張って起きて、花火をしたね。こんなに、純粋でかわいい人間がこの世にいるのかと思った。

 

 

 

花火の後は、今日1日を振り返って、いろんな話をして、そして、一緒に寝た。今日はお母さんは夜勤だったけど。一緒にお話をしながら寝たね。

 

 

明日、キミが起きる前に、僕はまた遠くに行くけど、何も心配してない。気持ちは通じてると思ってるから。寂しいけど、心配はしてない。

 

 

キミは僕よりも、ずっと素晴らしい人間だ。そう信じてやまない。

年月

時が経つのは早い。

 

 

本当に早い。僕もついこの前まで少年であった。そういう実感である。大げさにいうと、ついこの間まで高校生だった気分だ。そのくらいに時の流れはその流れをより早くすれど止まることはない。三十半ばになった。逆から考えてみると、自分が高校生だった頃、三十半ばの自分なんて想像もできなかった。この速度で、いや、さらに速度を増して、僕は四十半ばになるのだろう。

 

 

やり残してることはないか。

 

 

時が経つのは早い。この時の経つ早さというものは、その最中にあるときは気がつかないものだ。それが時間の恐ろしさである。今日、この瞬間にこの時の早さを感じることはない。時の早さはいつも振り返った時に感じるのだ。しばしば後悔とともに。こんなに時間が経ってしまった、というような気持ちとともに。後悔先に立たず、とはこの世の真理なのだろう。

 

 

年月の経過は、僕らの記憶を徐々に薄れさせていく。よっぽど意味を持つ人やことでない限り、昔であればあるほどその記憶は薄れていくものだ。そして、はっきりしなくなった記憶は脚色される。嘘をついているのではない。しばしば記憶に対する「事実」が異なるのは、人の記憶は脚色されるからである。記憶の脚色は、人の自尊心を救ってくれるのだ。真実は常に厳しい。人間が生きるには嘘が必要なのだ。

 

 

今日一日にさよならを告げよう。

 

 

後悔は過去への執着である。今日も過去になる。明日も過去になる。そして、過去が僕たちの前に現れることは二度とない。もう二度と会えない人に、今生の別れを告げる時、人は何かを躊躇うだろうか。いや、それでも人はどこかで怯え、どこかで恥ずかしがり、うじうじもじもじしてしまうかもしれない。でも、それはきっと後悔に変わる。

 

 

 

後悔とは、全力を尽くさなかったことに対する後ろめたさなのだ。

 

 

 

今日は、終わってしまえば、二度と会えない一日なのだ。今日を怯え、今日を恥ずかしがり今日が去っていってしまったら、今日という一日は、過去という亡霊になって僕たちを縛り付ける。成仏できなかった一日は、また成仏できない一日を呼び、一日は月日へと積み重なる。

 

 

 

人生はいつもいまここから。

 

 

生きていることが人生であるなら、人は過去に生きられない。過去はもう人生ではない。自分の人生はいま生きていることでしかない。過去には別れを告げるのだ。それが美しいものであれ、醜いものであれ。僕たちは過ぎていった日々に別れを告げなければいけない。どんなに名残惜しくても、さよならを告げるのだ。離れ離れになった友人を忘れることがないように、さよならを告げたからといって、大切な記憶はなくならない。

 

 

過去に別れを告げ、今と向き合う。

 

 

過去の事実は変わらない。だが、過去の解釈は変わる。もし、今が本当に幸せであるならば、過去の悲しい出来事や悲惨な気持ちさえ、あの時の経験は糧になったと思うのが人間なのである。過去が暗く見えるのは、今幸せではないからなのだ。人は過去の延長線上に生きているのではない。昨日とは関係のない新しい一日が与えられている。今日をはじめるのだ。

正しさとあたたかさ

正しさは万能の真理ではない。

 

 

そもそも人は間違うし、絶対的な正義を見つけられるほど人間の理性は万能ではない。正しいことなんて時代によって変わるのだ。これは真実だ。天災が起こらないように生娘を生け贄に出すのも、有色人種を差別するのも、女性には選挙権がなかったのも、ほんとは間違ってるんだけれどと思いながらやってきたわけではない。むしろ正しいこととしてやってきたという方が近いだろう。

 

 

 

人間の理性はしばしば当てにならない。

 

 

正しさにすがりついてはいけない。正しさを振りかざしてもいけない。正しさは自らを律するために一人で実践することだ。その姿に感動した誰かに影響を与えることはあっても、わざわざ正しさを喧伝する必要はない。

 

 

人にはあたたかさが必要だ。

 

 

正しさよりもあたたかさの方がずっと人に良き影響を与える。正しさがなくても人は死なないが、あたたかさがなければ人は死ぬ。あたたかさがなければ、体としても死ぬし、心としても死ぬ。ほっとあたたかい気持ちになったことが最近あっただろうか。おそらくほとんどないのではないだろうか。あたたかさがなければ人は死ぬという状況で、あたたかさを感じることがほとんどないとするならば、人は死にそうになりながらなんとか生きているということだ。

 

 

 

現代社会はあたたかさ不足、正しさ過剰なのだ。

 

 

 

現代のこの殺伐とした空気感はまさにここから来ていると思う。何度も言うが、人は必ず間違う。自分が間違わないともし思ってるなら、それはおそらくかなり幼稚だ。間違うのが当たり前の人間にとって正しさは、あくまで目標であってノルマではない。人が正しくないからといって徹底的に叩くのは、明らかに正しくない。正しくない人間を多数で叩き続けるのも、明らかに正しくない。この世は間違いだらけなのだ。

 

 

 

あたたかさを感じてる人間は人を傷つけない。

 

 

 

傷つける必要はないからである。なぜ人は人を傷つけるか。それは生存をかけて人を傷つけるのだ。心理的生存をかけて他人と争っているのだ。もし、100人の人がいて80人分を生かす食料しかないなら争いになるだろう。20人にならないための争いがはじまる。心理的にも同じことが起こる。あたたかさを感じていない人間は自分の生存をかけて戦っているのだ。この人間社会から排除されまいと、なんとか生き残ろうと人と争ってるのだ。それはもちろん虚構だ。でも、この虚構の中に生きているのが人間なのだ。それほど人間の理性は当てになるものではない。

希望

人生に必要なのは間違いなく希望だ。

 

 

今、僕は間違いなくこう思っている。僕は、夢だ希望だ言うのは現実否認の甘い人間のすることだというような考え方の中で育ってきた。でも、繰り返しになるが、もう一度言いたい。人生に必要なのは間違いなく希望である。ではなぜ、人は夢や希望を否定するのか。それは夢や希望に敗れたからである。いや、もしかしたら、夢や希望を持ち、それに挑む勇気さえなかったのかもしれない。

 

 

希望を持つのは簡単である。誰でもできる。しかし、希望を持ち続けるのは意思がいる。根気がいる。勇気もいる。人間の成長に欠かせない要素が求められる。才能や環境や運が、人生を決定づけると思っている人には受け入れがたい事実であるかもしれないが、僕は希望を持たなければ人は堕落すると思っている。

 

 

この世は何をやっても自由なのである。

 

 

本当はこの世はかなり自由である。他人の目や評価を気にしなければ相当なレベルで自由なのである。しかし、我々の文化が最も苦手なのが自由でもある。本当は何をやっても自由なのである。人の数だけ人生がある、というのが本当なのだ。それなのに、誰かの価値観の枠の中で、誰かに認められようとして人は自らの個性を歪める。人は、他者の世界に土足で踏み込んではいけないのである。そこは、個人の聖域だからである。

 

 

強くなるのだ。

 

 

希望と自由は強い人間しか扱えない。僕は、僕の子どもたちには強くなってもらいたい。それは才能や能力の問題ではない。才能や能力も一つの強さには違いない。しかし、それだけが強さなら、自分より能力のある者が現れた瞬間に、自分は弱き者となるだけだ。僕がいう強さとは、他人をはねのける強さだ。自分の聖域を守る強さだ。自らの希望と自由を実現する強さだ。

 

 

人は一人で強くはなれない。それは他人をはねのける強さと矛盾するように思うかもしれない。しかし、他人も様々なのだ。人間にとって何が善で何が悪か。僕にはいまの結論がある。

 

 

自分に力を与えるものが善で、自分の力を削ぐものが悪である。

 

 

他人をはねのける強さというのは、自分の力を削ぐ他人の働きかけをはねのけるのだ、という意味である。人は一人では強くなれない。だから、僕は他者に力を与えられる存在でありたい。人生はいつもこれからだ。今この瞬間からだ。過ぎた時間はもう僕の人生ではない。

 

 

自分に力を与えてくれる他者と布陣を組んで、人生という戦場に出ていくのだ。

 

 

希望の燈をかかげて、自由に進んでいくのだ。

 

 

他人

自分以外の人間は他人なのだ。

 

 

他人なんて関係ないとか、どうせ結局は人は当てにならないとか、そういうことを言いたいがために「他人」と言ったわけではない。適切に言いたいことを表現するのは難しいが、「自分ではない」という表現が一番適切であろうか。そう、自分以外は自分ではないのだ。

 

 

自分にとって、自分以上に他人に意味を持たせるな。

 

 

他人の言う一言、他人の視線、他人の態度を必要以上に自分に影響させてはいけない。そのためには、自分が自分にとって納得できる生き方をしなければならない。もっと言うと自分を誇らしく思うような生き方をしなければならない。もし、自分が自分で誇れるような生き方をしていれば、何を他人を恐れることがあろうか。

 

 

そうなのだ、実は人間の一番の問題は、今日一日を自分の人生として精一杯生きていないから起こるものだ。自分が自分の人生のために全力を尽くしているときに、なぜ他人の態度が気になるだろうか。

 

 

自分が自分のために生きているのではなく、他人に認められようとしてるのだ。

 

 

他人に認められよう、他人に気に入ってもらおうとするために生きているから、他人の顔色が必要以上に気になってしまうのだ。誰だって、人に嫌われたくはない。誰だって、人と険悪な関係になりたいわけではない。でも、どうしたって、悪意の人、憎しみの人、意地悪な人はいるものだ。だいたい、人間関係が苦手とか、生きづらいと言うのは、相手が見えていないのだ。空気を読めずうまくコミニケーションが取れないのも、空気を読みすぎて親しい関係になれないのも、全く真逆のように見えて実は同じことなのだ。

 

 

相手自身を見ていない。

 

 

人は誰しもが幸せになりたい。好きな人といたい。美味しいものが食べたい。でも幸せも、好きな人も、美味しいものも、人それぞれ違うのだ。人間関係にしても同じ。どういう人間が良い人間だと思っているかも、人それぞれ違うのだ。では、全ての人にいい顔をするというのはどういうことか。

 

 

極力自分を殺すことだ。

 

 

つまり、人は人に好かれようとすると幸せになれないのだ。私が私らしく生きていって、その私を好きになってくれる人がその人にとっての重要人物なのだ。

 

 

本当はまずは私なのだ。まずは何よりも私なのだ。私が私として、私の人生を精一杯生きる。その姿勢が何よりも大切なのだ。そういう時に、他人の目は気にならないだろう。まずは私の人生を充実させるのだ。私の人生に意味を持たせるのだ。