途上にて

過去と未来の交差点

金メダル

冬季オリンピックが開催中である。オリンピックに出場してる選手はみな、今、世界中の注目を一身にあびて、人生のひのき舞台に立っているのだろう。

 

うらやましいと思った。もちろんオリンピックに出たいと思ったからではない。僕が小学生や中学生なら、うらやましいの意味は、憧れであり、僕だってという希望かもしれない。でも、今僕が感じたうらやましさはそういったものではない。自分の人生の、おそらく全てのものをそこにかけて生きる情熱の、その価値というか、自分にとってそこまで大切だと思えるものが、自分の人生のど真ん中にあるということがうらやましく思ったのだ。もっというと、オリンピックに出ていることがうらやましいのではない。そうではなくて、彼らがオリンピックにたどり着くまでに経てきた道のりがうらやましいのだ。

 

冬季オリンピックの競技の中には、華々しい様々なプロスポーツの世界と比べて目立たないものも多い。中には、大変な苦労をしながらもなんとか競技を続けてきたような人も少なくないだろう。ほとんどの人は、そこまでできない。オリンピックは注目されるが、普段の彼ら彼女らの日常はほとんど知られない。オリンピックは一瞬だが、残りの4年間のほとんどを僕らは知らない。それでも、彼らは挑む。オリンピックはその象徴だが、それ以上に彼らは自分の人生に挑んでいる。きっと僕がうらやましく感じているのはこういうことだ。

 

 

自分を信じて、自分の道を歩んだ、その人生がうらやましいのだ。

 

 

ほとんどの人間には、私の人生はこれだ、というようなものはない。僕も多分に漏れずである。今僕は、この歳になって、人間は、「私の人生」がないから、不必要に他人にからむのだと思っている。「私の人生」がないから、人の目ばかり気になるのだと思う。他人から何か言われたり、笑われたりすることをおそれて、そして、世間や社会という川を、誕生から死亡まで流れていく。なんとなく、ぼんやりした、漠然とした不安とともに。

 

 

本当はバカにされても、笑われたっていい。それは、バカにする側、笑う側の問題だから。

 

 

人生の金メダルがほしいと思った。「私の人生」がほしい。この人生で、よくやったと思える何かがほしい。自分を信じて歩んだ道、その道こそが、栄光の人生だ。僕はオリンピックを見て、そんな憧れをおぼえた。僕の人生の金メダルを、僕はこれからでも手にしたい。