途上にて

過去と未来の交差点

幸せ

幸せとはなんだろうか?

 

 

この問いに答えられる人はどれだけいるだろうか。だいたいよくわかっていないものを実現するのは人間には不可能である。勉強だってその攻略法を知らなければ入試もままならないだろうし、なんの練習をすればいいかわからなければ、スポーツ選手になることも難しいだろう。自分にとっての幸せは人それぞれ違うから、これという答えはないのだろうが、「私にとって」の幸せが何か?この問いに答えられない人が幸せを望むことは行き先を決めずして目的地に向かうようなものだろう。

 

 

人は思いの外、自分自身が欲しいものさえわかっていないのではないか。

 

 

こういった感覚が僕の中にある。幼い子供は自分の欲しいものを瞬間的に決められる、というようなことを以前書いたが、人は成長するにつれこういったものが価値があり、こういった態度が立派な態度であり、こういった人生がいい人生でありと、外部からの評価を自らの価値基準として取り込む。それは、人の中で生きていく人間として、必要うな社会への適応でもあるが、時折それが自分の本性なのか適応なのかわからなくなる。

 

 

本音と建前の区別がつかなくなった。

 

 

我々の文化は本音と建前でできている。良し悪しは別として、これは事実であろう。建前としての立派な理想と、とはいってもあれやこれやの人間の本音。社会は建前に従って、人間は本音に従って動く。しかし、社会も人間で構成されている以上、社会の中にも理想的でない人間の本音がこぼれてくるものだ。その本音と建前の葛藤がまた社会や人間に消費される。その繰り返しだ。

 

 

人間は本当にそれほど立派に生きられるものなのか。

 

 

人間は人間のように生きていくものだ。というような一節がある小説の中にあるが、理想化された人間像の中に幸福はないと僕は思う。理想化は人間疎外と同じことだと思う。建前の中に幸せはないのだ。建前は潤滑油のようなもので、マナーであっても道徳でも倫理でもない。ただ一つ、僕が思っていることがある。

 

 

嘘の中に幸せはない。

 

 

 

不幸

不幸を受け入れよ。

 

幸せになりたいなら、その同程度の不幸を受け入れる覚悟を持つべきだ。例えば、本当に二度とないような掛け替えのない熱烈な恋に憧れるなら、それを失った時はその反動で同程度の不幸に苛まれるだろう。10の幸せがあるとしたら、10の不幸があるだろうが、100の幸せがあるとしたら、僕らは100の不幸の陰に怯えることになるだろう。

 

無論、不幸はただの幸せに対する言葉だ。それが不幸であるはずはない。ここでいう不幸は、「幸せの影」と言ってもいいかもしれない。僕が太陽に当たれば、からなず影ができるように、幸せもいつも幸せの影をともなう。僕らはその幸せの影を、不幸と思ってしまうのだ。僕の影が、僕自身に起因するように、幸せの影は幸せに起因している。それを不幸と思うのは単なる勘違いだ。

 

幸せをおそれるな。

 

幸せになるのが怖い人は少なからずいる。それは不幸な人に囲まれて育った人だ。人は幸せになるべきなのだ。いや、人は幸せに生きる義務がある。

 

なぜなら、不幸な人は他人が不幸でいてほしいからだ。

 

私の不幸は誰かを不幸にするのだ。それが自覚的でれ、無自覚的であれ。

 

僕らがどれだけ不幸に怯えようと、僕らは不幸から逃れれはしない。それは、お化けから逃げたいというのと同じで、僕らはお化けから逃げうることはない。なぜなら、僕らはお化けというものの実態をつかめないからだ。僕らは不幸というものを実は知らない。不幸というものを理解できているものがいるとしたら、それは幸せを知っているものだ。幸せなものだけが、不幸を理解しうるのだ。僕らは、知らないものを想像で知っていると思いたがる生き物だ。

 

人間が生きている以上、傷つくことからは避けられはしない。勇敢に前に進んで傷つくこともあるだろうが、臆病に縮こまって逃避した傷も僕らの無意識は知っている。どちらにせよ、人生は無傷ではいられないのだ。

 

不幸をおそれるあまり、不幸になるというパラドックスに陥ることはあまりにも多い。幸せに向かうことを恐れて、一度きりの人生を棒に振ることも思いの外多い。僕らの理性は万能どころか、あまりにも頼りないものなのだ。

 

僕らが頼りにするべきは感情なのだ。感情こそ、僕らの個性そのものだ。私の感情こそが私のものなのだ。

 

不幸をおそれるな。そして、勇敢に進め。

時間

人生とは何かという問いに対しては、様々な答え方、表現があるだろう。僕が最近、切に感じていることがある。

 

 

人生とは、生まれて死ぬまでの時間である。

 

 

僕は今36歳になった。結婚して二人の子どももいる。ただ、今の人生がこのまま寿命まで続けばいいとはどこかで思ってはいない。今の生活に不満があるわけでもない。子どもはとても可愛いし、子どもとの関係もいい。しかし、それとは全く関係ないところで、僕は僕の人生にこれでいいという満足がないのだ。

 

 

誰が悪いわけでない。

 

 

僕らは自分の人生の問題の犯人探しをしている間に、あっという間に老いる。人間は究極的に自由なのだ。自らを不自由にするのは、自らの惰弱のみである。痛みに耐える覚悟さえ持てば、僕らは一秒後に自由になれる。

 

 

自由とは何か。

 

 

自由とは何かから逃れることではない。それを囚人の自由と呼んだ哲人がいたが、まさにその通りだと思う。監獄から自由になったからといって、どう生きるかはその人それぞれである。自由=ハッピーではない。自由はむしろ厳しい。厳しいからこそ、人は自らしばしば不自由を選択する。しかし、自由の厳しさに磨かれていない人間は、結局自己を獲得できない。「わたし」になれないのである。

 

 

厳しさで磨かれた人間はやはり美しい。全ての人間がそうなるべきだというようなことを言いたいわけではないが、自ら厳しさを選択して耐え抜いた人間の美しさというものは僕はやっぱりあると思う。そして、僕はそれに憧れている。それが、前にも触れた僕は自分の人生にどこか満足をしていないということにつながっていると思う。

 

 

一流のアスリートにしても、アーティストにしても、情熱を燃やす教育者にしても、仕事に人生を重ねている職人にしても、自らヒリヒリするような人生を選択している。そういった「本気」に僕は尊敬の念と憧れを抱く。そして、それは同時に、人生とは、生まれて死ぬまでの時間であるとしたら、僕は今、焦りを感じているのだ。

 

 

僕は老人ではない。でも、人生で初めて、自分は若くないということを受け入れ始めている。それは、今感じ始めたことではないけれども、どこかで先延ばししたり、解釈で乗り切ってきたものが、実感として迫ってきたとでもいうべきか。僕の子どもは、4歳の男の子と、1歳の女の子だ。僕がなにもしなくても、彼らには成長しかない。知らなかったことを知って、できなかったことができるようになり、体もどんどん大きくなる。頭脳も身体も成長しかない。

 

 

しかし、僕は生物としてのピークを終えた。そういうことをはじめて実感をともなって受け入れたのかもしれない。この先は厳しい。ほっておいても成長などはあり得ない。むしろ衰えさえかんじる。

 

 

成長できなければ、歳をとるとは、老いることでしかない。

 

 

子どもの無邪気さは、成長しかないからこそ持てるのかもしれない。大人は厳しい。成長するか、老けるか。この厳しさを突きつけられてる。残りの時間は厳しい。人格的に成長しなければ、身体的に退化するのみだ。人生とは時間だ。健康的に、能動的に動けるのが70歳までと仮定すると、自分は人生の半分の終えたという事実は、僕に突きつけるものは大きい。

差別

人間には差別意識がある。

 

 

本人が自覚してようと、自覚してなかろうと、人間は差別意識がある。こんな生活は嫌だとか、こんな仕事はしたくないとか、こんなになったら嫌だとか。でも、「こんな」人生を送っている人はいるのである。差別意識が強ければ強いほど、人生は困難になる。

 

 

好きで語れ。

 

 

人間は、自分の望みを叶えればいいのだと思う。こうしたいで生きるだけでいい。あらゆるこうありたくないを避けるとき、すでに人生は誰かに乗っ取られている。子どもを見ればよくわかる。自分の欲しいものは一瞬で決まる。それがなんであろうと、いくらであろうと、どういう評価を受けようと。3歳児は一瞬で自分の欲しいものが決められる。

 

 

普遍的に価値のあるものはない。

 

 

就職だろうと、結婚だろうと、こういうものが価値がある、と考えさせられるものが、世の中に溢れかえっている。誰かに認めてもらえるものを、人々は狂った動物のように探し求めている。ある一つの価値のベクトルがあって、その数値の大きいものを必死になって探している。それはすでに、その人が欲しいものではない。

 

 

人の評価が死ぬほど欲しい。

 

 

つまりは、それほど人の評価が欲しいということである。人に認めてもらわないと生きていけない。人はどうしたって、人の関心が欲しい。人の関心、承認が欲しいとは、人間の根本的な欲求である。なにもそれは恥じることでもない。ただ、気をつけなければならないのは、本当の健康的な人間関係の中で育てば、どんな自分にも関心を持ってもらえるし、どんな自分も承認してもらえる。でも、そうでなければ、ある価値の軸の中でしか認められないと思ってしまう。

 

 

人生を乗っ取られるな。

 

 

 

承認を求めすぎると、人生は乗っ取られる。自分の周りにはずるい人が集まる。差別的な人が集まる。逆に言うと、自分が集めるのである。そして、そういう人の承認をもし手に入れられたとしても、人生の霧は晴れない。それは自分が欲しいものではないからだ。

 

 

人間という生き物は本当に頭が悪い。

 

 

そう思うくらいがちょうどいい。我々は欲しくないものを欲しいと思い、誰かに認めてもらうために人生の貴重な時間を浪費する。しかし、人間は元々バカだった訳ではない。3歳児は賢い。自分にとってなにが好きか、なにが必要かをよく知っている。なぜ、そうなのか。

 

 

子どもには差別意識がない。

 

 

人間は、なにが好きかだけで生きている子どもに、偏見と差別意識を教育の名の下に植え付ける。差別意識は、人生を困難にする。人生を白黒にする。人生は意外とシンプルだ。人を傷つける価値観を持っていると、自分も同程度に傷つける。つまりは、そういうことだ。

罪悪感

自分を責めることほどやっていけはいけないことはないのではないかと思う。

 

 

なにも間違いを開き直って認めなくてよいという意味ではない。人は間違いだったと思うことをやってしまうものだ。間違ったと思ったら、反省して改めればいいだけだ。

 

 

もし、あなたの大切な人が、家族でも、友人でも、同僚でも、誰かが間違い、そしてひどく傷つき落ち込んでいるときに、あなたはどうするか。決して責めはしないだろう。

 

 

なぜ、自分のことはひどく責めるのか。執拗に思い出しては繰り返し責めるのか。それは果たして誠実な態度なのだろうか。

 

 

自分も大切な人なのだ。

 

 

いじめはいけない。人を傷つけてはいけない。人の傷をえぐるようなことをしてはいけない。むしろ、ともに悲しみ、ともに癒していくべきだ。人は言葉で死ぬのだ。このことを忘れてはいけない。

 

 

自分いじめもいじめに変わりない。

 

 

毎日、自分が心の中で自分にかけている言葉をよく観察してみると、他人には決して言わないような自分を蔑むような言葉をかけていないか。自分が理想的でないこと、完璧でないことを、責め続けていないだろうか。それをどこかで誠実な態度と勘違いしていないだろうか。

 

 

罪悪感を持つことは一見誠実で真面目な人間の態度であるように思うが、僕は少し注意しないといけない感情だと思っている。罪悪感は、しばしば人が完全でないことを忘れさせる。人は間違うということ、そしてそのことを素直に反省するという態度を奪いかねない。

 

 

自分がすると判断したことに罪悪感を持つと反省の機会を失う。

 

 

人間は、自分がすることにあれやこれや理由をつける。誰がどうとか、環境がどうとか、そうせざるを得なかった、というような理由をつける。しかし、なにはともあれ、最終的に自分がそうしているのだ。

 

 

罪悪感と自責はセットだ。そして、いつまでも自分責めだ。執拗な自分責めは、自分いじめだ。いじめは良くない。いじめで人は死ぬ。人をいじめてはいけないならば、人である自分をいじめていいはずがない。

 

 

罪悪感と自責のセットは人生に要らない。必要なのは、反省と成長だ。人は不完全だ。必ず間違う。しかし、人は成長できる。成長こそが人間の救いだ。人格的成熟こそ、人生の一大事業なのだ。

 

 

もう自分を責めることをやめて自分を赦すのだ。自分を癒すのだ。そして、成長に向かうのだ。

迷子

人は自尊心が深く傷つけられると、本当の気持ちは言わなくなる。本当に感じてることは抑圧される。そして、そのうち自分でも本当の気持ちはわからなくなる。

 

 

時として、自分にとって一番欲しいものをいらないと言ってみたり、一番気にしていることを別に気にしてないと言ってみたりする。これは特に珍しいことではなく、人間によく見られる防衛だ。

 

 

防衛過剰

 

 

人は裸になったときにはじめてコミニケーションが成り立つ。ありったけの嘘の服を着込んで私のありのままの感情を隠している状態でコミニケーションはできない。しかし、同時に防衛過剰になった人間が最も欲しいものはコミニケーションでもある。

 

 

偽りの良い子より、無邪気な自分勝手の方が愛される。

 

 

子どもはその典型だ。子どもはまさに自分の気持ちに正直だ。ありのままという言葉はよく使われるが、僕はありのままという言葉の意味は、自分が感じてるそのままに感じて良い、ということだと思っている。

 

 

ありのままでないとコミニケーションはできない。自分の本音を隠したまま他者とはつながれない。だから、いつしか忘れてしまった本音を思い出すのだ。

 

 

迷子になった私を救出に向かうのだ。

 

 

きっとどこかで泣いている傷ついた私がいる。自尊心を守るために、こういう私はダメだと置き去りにしてきた私がいる。その時は言えなかった言葉や、その時は禁じた感情がどこかで迷子になったままでいる。

 

 

迎えに行こう、私を。

 

 

それはまぎれもなく私だ。恥ずかしい私でも、情けない私でもない。誰かにそう言われたかもしれないが、そんなことは嘘っぱちだ。迷子になったままの私は、本当は大切な私なのだ。むしろ、私の核みたいなものだ。

 

 

人は無意識でいろんなものを感じている。その無意識で感じていることと現実に矛盾が生じると、意識がもっともらしい嘘をたくさんでっちあげてくれる。

 

 

でも、本当はわかってる。人間の無意識はいつも本当のことを知っている。誰かにこう思われるんじゃないかと恐れて、私を置き去りにしてきたことを知っている。私より誰かを優先してしまったことを無意識は知っている。だから、自信がないのだ。

 

 

他人にこう思われるんじゃないかと恐れることよりも、私が私を見捨てることの方がよっぽどおそろしいことだ。私が私であることを放棄することに比べたら、他人にどう思われるかということは取るに足りないことなのだ。

 

 

だから、迷子になった私を迎えに行こう。そして、その私と仲直りをしよう。

 

 

迷子になった私、それはまぎれもない、大切な私。

 

 

この人生で

僕には子どもが二人いる。4歳の男の子と、1歳の女の子だ。彼らの前途は無限に広がっている。僕の頭を遠く超えて、僕の知らない、向こう側の世界で活躍して欲しいと思っている。

 

 

僕はまだ生きるつもりだ。死ぬ予定はない。しかし、人間は時々、本人も予想だにしない死をとげるものだ。だから、僕は自分の携帯の中に、もしものことがあったら、彼らに言いたいことをメモしている。

 

 

これは長男が生まれてから、日々思いついたことの中で、記憶にとどめておきたいものをメモしてきているので、ずいぶんな量になった。その中の一つで、僕が特に子どもたちに言っておきたいことがある。

 

 

キミはこの人生で何をするか。

 

 

人間も生き物には変わりないが、動物と違う点は、人生に意味を求めるということだ。自分が意味付けしたものが、自分の人生そのものである。人の人生とは、自分が自分の人生につける意味そのものなのである。

 

 

僕はこの人生を何に捧げるのか。

 

 

そして、その問いはそっくりそのまま僕に跳ね返る。悩みや不安、憂鬱に苛まれ、人生を浪費し続けていいのか。好きでもないことを嫌々しながら、後戻り出来ない貴重な時間をやり過ごしていいのだろうか。

 

 

人が恐れてるのはほとんどの場合、他人の目である。

 

 

なぜ、他人の目を恐れるのか。それはこの世にはある程度の数の、他人が不幸であってほしい人間が存在するからだ。誰かの失敗や、誰かの不幸にたかるハイエナのような人間がどうしても存在するからだ。そして、それを遠巻きに眺めてホッとする人間もいるからだ。

 

 

人は幸せにならなければいけない。

 

 

幸せとはなにか。自分が満足できる人生を送ることだ。幸せかどうかは自分でしかわからないのだ。結局、人は自分が幸せでないと、誰かの幸せを願うことはできないのだ。

 

 

誰かの犠牲になってはいけない。自分を奴隷におとしめてはいけない。誰かに認めてもらうために、人生を他人に捧げてはいけない。

 

 

しかしこれはなにも一人で生きるということではない。もっと正確に言うならば、「誰にでも」好かれようとしてはいけない。「誰にでも」認められたがってはいけない。誰を相手として生きるかは、自分が選ぶのだ。

 

 

人生は自分の選択の集大成なのだ。

 

 

人は無数の選択をする。生まれてから死ぬまで、些細なことから、人生の分かれ道になるような決断まで。大切なのは自分で決めることだ。自分で決めているようで、誰かの価値観に基づいて決めることは思いのほか多いものだ。本当に自分で決めてきたならば、今日のわたしが憂鬱なはずはない。

 

 

この人生でなにをするか。

 

 

そのために人生の選択権を自分の手に取り戻すのだ。